極うま鍋「鷹狩り鍋」
テレビや新聞で紹介されて、人気急上昇中の鍋をご紹介します。
約10ヶ月をかけて開発した黒豆みそ風味の鍋シリーズです。
柏葉八重あじさい です。 当店2階ホールに飾ってあるのは、 「柏葉八重アジサイ」 という紫陽花のひとつです。 可憐な白い花が幾重にも咲いて、とても清楚な 雰囲気の花です。 紫陽花の花ことばは、 「純真無垢」 「汚れのない心」 「純潔」 だとか…。 当店の従業員も、この気持ちを忘れずに、 お客様をお迎えしたいと頑張っています。 |
本日1月17日(木)は「子安講」のご予約でにぎやかです。
子安講は関東地方独特の行事だと聞いています。
各地区ごとの既婚の女性が集まって子安神を祀(まつ)り、
安産を祈る行事です。
だいたい19日に行われることが多く「十九夜講」とも
言います。
関東地方に多くみられる独特な風習です。
当店のマイクロバスとワゴンが各地域へと送迎に走り出します。
写真は「西中公民館前バス停」の集合場所です。
先日の大雪の名残が少しありますが、快晴でぽかぽか陽気です。
東金の昔からの伝統を残す、落ち着いた雰囲気の地域です。
昔の子安講では、結婚した女性が子安地蔵や子安観音の前に
ムシロを敷いて祭事を行っていました。
しかし、現代ではそのような行事はなくなりました。
今は、「頭屋」と呼ばれる「当番さん」の家に集まり、
「子安様」と言われる神社に揃ってお詣りします。
その後、飲食を共にするように変わりました。
女性だけの親睦会になっています。
その席では、新しく嫁にきた女性や、
新加入の年頃のお嫁さんなどが、
地域の古くから伝わる習慣や決めごと、
序列などを教わる場所にもなっています。
新しく村に嫁入りした女性は、丈夫で、よい子供に
恵まれて安産であるようにと子安講に入ります。
その時は、仲間入りとしてお酒を1升と酒の肴の「スルメ」、
「煎餅」などを持参し、母親に連れられて集まりに出向き、
参加している人々に紹介されました。
1月は「おびしゃ」で男性の“飲み会”、
「子安講」で女性の“食事会”というのが、
この地域での重要な親睦行事になっています。
都内・八王子市の松本周子さん(46歳)はオナラに悩まされている。(食事中の方失礼)
「仕事先では取り繕うのが大変だし、家族はその臭いで、殺される〜って。いつもお腹が張って痛いですし、もう嫌です」
その松本さんが内科の鳥居明医師を訪れた。
レントゲンで撮影するとたしかに腸にガスが溜まっている。
鳥居医師は
「バラエル(腸を揉んで活性化する)マッサージをやりましょう。仰向けに寝て、両足を曲げてお腹の筋肉緩めて下さい」
マッサージは、右下腹部から大腸に沿って時計周りで、腹式呼吸の息を吐く時に5センチ程深く押していく。
右側の骨盤の上、
右側の肋骨の下、
左側の肋骨の下、
左側の骨盤の上、
最後に膀胱の上を押していく。
これを5回行う。
効果はてき面、松本さんは直ぐにトイレに駆け込んだ。
松本さんは自宅でこのマッサージを1週間続け、3日に1回だった便通が毎日になった。
長男の壮耀君も大喜びした。
「お母さんのオナラが全然臭わなくなった。快適です」
東邦大学の瓜田純久教授はヨーグルトのビフィズス菌と腸内ガスの実験を28人に試した。
1日100グラムを1か月間飲んで、呼気検査で腸内のガス測定をしたら、実験参加者の半分がメタンガスは10分の1、水素ガスは3分の1に減った。
瓜田教授は「ヨーグルトとオナラ、つまり腸内ガスとの関係はまだ解明されていませんが、多少なりとも関係がありますが、ただし個人差もあります。メドは2週間。効かなかったら違うヨーグルトを試してください。ただし下痢になったら直ぐに止めて下さい」
(JCASTテレビウオッチより)
NHK NEWS WEB
山本美香さんが伝え続けた思い
8月24日 20時50分
内戦状態が続くシリアで取材をしていたジャーナリストの山本美香さん(45)が、銃撃を受けて亡くなりました。
長年、世界の紛争地の最前線で仲間のジャーナリストとともに取材をしてきた山本さん。
山本さんが伝えたかった思いは、残された最後の映像を通して多くの人々に強く訴えかけています。
現地で取材をしたカイロ支局の西河篤俊記者、そして山本さんの出身地である山梨県甲府放送局の弦本康孝記者と北清杏奈キャスターが解説します。
市街地の銃撃戦に巻き込まれて
山本美香さんが巻き込まれた銃撃戦は、一見平穏そうな市街地で突然始まりました。
山本さんは長年取材活動をともにしてきた佐藤和孝さんと一緒に、反政府勢力・自由シリア軍のメンバーに同行してシリアでも最も激しい戦闘が続くアレッポを取材していました。
山本さんは銃声が鳴り響く街の様子を撮影する一方、戦火の街で暮らす市民の姿も取材していました。
人々が行き交う道路の先、迷彩服を着て隊列を組みながら歩いてくる集団が現れ、街の雰囲気は急変します。
佐藤さんは当初、同行していた自由シリア軍の仲間だと思ったと証言しています。
しかし、反政府勢力が身につけないヘルメットをかぶっているのに気づき「政府軍の兵士だ」と思ったそうです。
政府軍とみられる兵士たちが突然銃撃をはじめ、佐藤さんの3メートルほど後ろにいた山本さんとは、逃げる途中で離ればなれになりました。
銃撃は1時間ほど続き、佐藤さんが山本さんと再会したのは、近くの病院でした。
山本さんは首や腕などに銃弾を受け、すでに亡くなっていました。
先週、私たちNHK取材班はトルコとシリアの国境地帯で取材にあたっていた際、山本さんと佐藤さんに会っていました。
山本さんが亡くなる3日前のことです。
山本さんは元気そうな様子で、シリアで取材した映像を中継車から日本に伝送していました。
2人は近くアレッポに行くつもりだと話していたので、山本さんが戦闘に巻き込まれたという一報を聞いたときは衝撃を受けました。
内戦状態のシリア・アレッポとは
山本さんが亡くなったアレッポは今、ジャーナリストにとって最も危険な取材現場だと言われています。
山本さんが銃撃された日もアレッポで取材していたトルコのテレビ局のカメラマンは、拳銃に1発の弾をこめて誰が当たるのかを賭ける「ロシアンルーレット」にたとえ、「どこに行ってもさまざまな勢力の狙撃手がいて誰がどこから撃ってくるかまるで分からなかった」と話しています。
アレッポでは政府軍が支配する地域と反政府勢力が支配する地域が複雑に入り組んでいます。
さらに政府軍は戦闘機やヘリコプターからも爆撃しています。
佐藤さんは「これまで数多くの戦場で取材してきたが、今回のように街の真ん中を戦闘機が飛んで空爆するのを見たのは初めてでシリアという国が国民に対して行っている容赦のない暴力は驚きだった」と話していました。
ジャーナリストと戦場
戦場での取材は常に危険を伴います。
テロや攻撃に巻き込まれるジャーナリストはあとを絶ちません。
アサド政権は外国メディアの取材を厳しく制限しアレッポのような激しい戦闘が続く地域で取材許可を得るのは事実上不可能でした。
このため多くの外国メディアが反政府勢力が制圧したトルコとの国境検問所を通ってアレッポを目指しました。
政府軍がジャーナリストを攻撃の対象としているかどうかは定かではありませんが、敵である反政府勢力のそばにジャーナリストがいた場合でも、ためらいもなく攻撃すると考えられます。
山本さんは佐藤さんとともにアフガニスタンやイラクなどの戦場で取材を続けてきました。
危険を伴っても紛争地での取材を続けることについて佐藤さんは「戦闘の最前線がどうなっているか現場に行って確認するのはジャーナリスト精神の根本で、山本さんも覚悟していたと思う」と話していました。
長年行動をともにした山本さんを亡くした直後から佐藤さんは取材に応じています。
佐藤さんは「我々ジャーナリストはこういう現場で取材をする。逆に取材される立場になったから、やめてくれとは彼女なら絶対に言わない。彼女はシリアで何が起きているかを伝えるためにシリアに来たのだから私のことを応援してくれていると思う」と涙をこらえながら話していました。
“校庭に地雷が1つ埋まっているとしたら”
山本さんは7月4日、出身地である山梨県のNHK甲府放送局の番組に出演し、アフガニスタンの現状を語りました。
出演にあたって山本さんは「戦う兵士の姿や悲惨さだけでなく紛争地にも普通の人が住み、たくましく生きている様子を知ってもらいたい。バランスが大事、同情を誘うだけでは現実的ではない」と語っていました。
山本さんは子どもたちにもメッセージを伝えていました。
著書『戦争を取材する』では「校庭に地雷が1つ埋まっているとしたら」と子どもたちに問いかけています。
問いかけには”紛争地の子供たちの置かれている状況を身近に感じてほしい”という願いが強く込められています。
山本さんは本を書いたきっかけについて「小学校で講演をしたときに子どもたちが真剣に聞いている様子を見て、未来を作るのはあなたたちだと伝えたかった」と話していました。
家族の支え 世界へのきっかけは
山本さんのジャーナリスト活動を、家族も陰で支え続けていました。
実家の玄関には、山本さんが書いた記事が画びょうで止められていました。
父親の孝治さんは元新聞記者で、山本さんが取材に出かけるとき「ただ『頑張って』、そして『身の安全を。無事を祈る』と言うことが親として精一杯の言葉で、はなむけの言葉でした」と話していました。
母親の和子さんによりますと山本さんは小さいころから本をよく読んでいて、とくに動物の言葉を話せる主人公が世界中を旅して動物を助ける、イギリス人作家ヒュー・ロフティングの作品『ドリトル先生』のシリーズが大好きだったそうです。
「世界に関心を持ったのは本がきっかけだったかもしれない」と話していました。
日本の人たちに伝えたかった思い
山本さんは番組に出演する前に「みんなやむをえず戦っている。一人一人に、地球上で生きる同年代の人のことについて、思いをめぐらせて欲しい」と訴えていました。
また紛争地で暮らす“普通の人々”が戦渦に巻き込まれる状況について、「伝えることによって戦争が早く終わるかもしれないし、拡大するのを防ぐかもしれない」と語っていました。
“最後の映像”にも戦火に暮らす普通の人々が
山本さんが最後に撮影した映像にも、こだわりを持ち大切にしてきた思いがこめられていました。
赤ちゃん連れの人をみかけると、「かわいい」とおだやかな口調で言葉をかけていました。
ベランダから外の様子をうかがう家族の姿も撮影していました。
自由シリア軍が道路に車止めを設けるのを手伝う子どもたちなど、普通の人々の姿を追いかけていました。
佐藤さんは「力のない子どもや自分と同じ女性、過酷な状況で生きている人の声を伝えたいという強い信念を持っていた。彼女にはまだまだジャーナリストとしての未来があり、残念だっただろう、悔しかっただろうと思います」と話していました。
【ブログ後記】
この『花のたより心のたより』では、山本美香さんが亡くなられた当日から、様々なメディアの記事を参考にしたり、そのまま掲載してお知らせしてきました。
私自身も、若いころに報道のカメラマンをしていた時期がありましたが、人の死を数多く目にして、身体の故障と心の大きな変化とともにこの仕事から離れていった経緯があります。
山本さんを知ったのは、今から3年ほど前のテレビでした。
中東の都市で取材をしている姿を映像で見たのですが、彼女は自然体で明るく、素直で気負いがありませんでした。
戦場という特殊な現場において、精神を平常に保つことは、日本という平和で安全な場所で生まれ育った一般の人々には無理なほど過酷な現実が次々に襲いかかります。
それが日常であり、そして、そこに暮らす人々の唯一の故郷の現実なのです。
そのような中で、人々の生活や子供たちの笑顔を撮り続ける山本さんが、男ばかりの世界で頑張る姿に驚きすら覚えました。
そして、想像を絶する死と隣り合わせの現場に居ながら、女性の視点から、伝えることの厳しさと悲しみ、そしてそこに住む人々への優しさを撮り続けていたことにあらためて感銘を受けました。
志半ばで命を散らしたことは、とても残念であったでしょう。
でも、彼女の想い、希望、魂は必ず受け継がれて行くことでしょう。
『現実を伝えることで、戦争が少しでも早く終わることを希望してます』と言う、山本さんの言葉が心に染みわたります。
お疲れ様、本当にお疲れ様でした。
安らかに眠ってください。
そして、別の世界では、もっと楽しい、子供たちの笑顔を、人々が心から笑っている姿を撮影してください。(合掌)