RSS | ATOM | SEARCH
残暑を乗り切る生ビールと地鶏の焼き鳥
 いらっしゃいませ!
かくじゅう&十文字です。

相変わらずアツイです。

残暑が厳しい毎日ですが、熱中症対策は万全ですか?
室内でも熱中症になるそうです。

当店の厨房もとても暑いので、板前さんたちも揚げ物や
焼物があるので大変です。

そうこう言っているあいだに、9月になります。
いよいよ3日からは新学期。

子供達にとっては、あっという間の夏休みでしたね。

今年の夏は、猛暑が続いて、水不足が心配です。
節水に心がけましょう。

夏も最後の日、本日で 『夏の感謝祭』 は終了です!

1階十文字では、生ビールを250円

焼鳥をどれでも1串 100円でご提供中!!

8月31日の9時までやってます。

ぜひお立ち寄りください。

おしい刺身やうな丼で夏バテを解消しましょう!!!


ふわとろ850

夏バテには、何と言っても 『うなぎ』 でしょう!
不思議とパワーが出てきます。

十文字昼のランチでは、「ふわとろうな丼850円」 と……、

石焼きうな丼870

「石焼きうなビビンバ丼870円」 がおすすめです。

そして定番の 「うな丼1500円」 と

「うな重御膳2200円」 が人気です。

どちらも値段は据え置きで頑張っています。

うな重
うな丼1500
author:清衛門, category:イベント, 18:59
-, -, -
元祖6食プレート
 本日30日(木)の6食プレートです。

おかげさまで、かくじゅうビル1階の『十文字』の
サービスランチは、まいにち大勢のお客様で賑わっています。

ありがたいことです。(感謝)


人気のひとつに、サービスランチに付いている

 “6食プレート”があります。



東金地区でこれを始めたのが、今から6年前です。

たぶん、当店独自のサービスだと思います。

6Pメイン

これが、8月30日(金)のサービス品、6食プレートです。



詳しく解説しましょう。

6P俯瞰

左上から、「サーモンの錦糸卵巻きスライスきゅうり添え」、

「ごぼうとひき肉の甘辛煮」、「さわらの炙り焼き」

左下から「小女子とくるみの佃煮」、「国産スモークチキン」

「わさび菜のおひたし」。



こんな感じで毎日、日替わりでご提供しています。


明日は「海老の湯葉巻き」を入れることが、
今のところ決まっています。

それと、「スモークチキン」は毎日入ります。

何と言っても、当店の売りである
「なでしこポーク」を生産している
精肉メーカーさんの、
自家製で無添加のスモークチキンですから。

漬け丼630円

一番人気の 『海の幸漬け丼 630円』 です。

まいにち日替わりで、その日の市場のお魚を
特製ダレで漬け込んだ注文数トップの逸品です。

もちろんこれにも「6食サービスプレート」と
「味噌汁」が付いています。

これで630円はお得だと評判を頂いています。

もちろん、ご飯の大盛は無料です。

国産牛ステーキ丼1100

国産牛のステーキ丼



冷やしたぬき850

おおきな器の「冷やしたぬき そば・うどん 温泉卵のせ」




カレイの唐揚げ健康サラダ風700

カレイの唐揚げ健康サラダ風 700円


まだまだたくさんありますよ!

土曜・日曜もサービスランチはやってます。

そうだ!十文字ランチへ行こう!!が合言葉。
author:清衛門, category:そうだ!十文字ランチへ行こう!, 01:16
-, -, -
便秘解消にお役立ち情報
飲食店なのに、便秘のはなし???

でも、生活の中で避けては通れない大切なお話しですから…。

JCASTウオッチから、耳寄りな情報をゲット!

お試しあれ。
 


時計回りにお腹押して大腸活性化

都内・八王子市の松本周子さん(46歳)はオナラに悩まされている。(食事中の方失礼)


「仕事先では取り繕うのが大変だし、家族はその臭いで、殺される〜って。いつもお腹が張って痛いですし、もう嫌です」


その松本さんが内科の鳥居明医師を訪れた。

レントゲンで撮影するとたしかに腸にガスが溜まっている。

鳥居医師は
「バラエル(腸を揉んで活性化する)マッサージをやりましょう。仰向けに寝て、両足を曲げてお腹の筋肉緩めて下さい」


マッサージは、右下腹部から大腸に沿って時計周りで、腹式呼吸の息を吐く時に5センチ程深く押していく。

右側の骨盤の上、
右側の肋骨の下、
左側の肋骨の下、
左側の骨盤の上、
最後に膀胱の上を押していく。

これを5回行う。

効果はてき面、松本さんは直ぐにトイレに駆け込んだ。


松本さんは自宅でこのマッサージを1週間続け、3日に1回だった便通が毎日になった。

長男の壮耀君も大喜びした。

「お母さんのオナラが全然臭わなくなった。快適です」

ヨーグルトで腸内ガス10分の1に減少

東邦大学の瓜田純久教授はヨーグルトのビフィズス菌と腸内ガスの実験を28人に試した。

1日100グラムを1か月間飲んで、呼気検査で腸内のガス測定をしたら、実験参加者の半分がメタンガスは10分の1、水素ガスは3分の1に減った。

瓜田教授は「ヨーグルトとオナラ、つまり腸内ガスとの関係はまだ解明されていませんが、多少なりとも関係がありますが、ただし個人差もあります。メドは2週間。効かなかったら違うヨーグルトを試してください。ただし下痢になったら直ぐに止めて下さい」

(JCASTテレビウオッチより)

author:清衛門, category:おもしろネタと役立ちネタ, 00:42
-, -, -
究極の冷やしたぬきそば
 大きな器
たっぷりのトッピング
ボリューム満点で
850円!!

冷やしたぬき850

多くのお客様に親しまれる 『冷やしたぬき』 です。

野菜と海老と半熟たまごがド〜ンと乗っけてあります。

そのトッピングを静かに左右に分けて、

まず、お蕎麦をズルズルっとすすります。

少し濃いめのつゆに八割そばがからんで、

のどを通りますと、夏の暑さを一気に忘れるのめり込み。

続いて、ひとくち野菜をシャキシャキ頬張ると、

身体じゅうにビタミンが染みわたります。

ここで、はじめて半熟たまごを端の先端でゆっくり割る。

とろっと流れ出た黄身の鮮やかな黄色が未来を予測させますな。

軽くボイル海老を半分食べて、その弾力が残る口のなかへ、

卵をからめた蕎麦を一気にほおり込みます。

そして最後の仕上げ。

海老の香りが残る天カスが溶けたつゆを、

最後の一滴まで飲みほすと、頭の前頭葉をほどよく刺激した

満足感が波のように打ち寄せます。

サイドメニューに付いた、6食プレートのきれいなおかずも

五感をしびれさせる。

大満足の850円
author:清衛門, category:そうだ!十文字ランチへ行こう!, 01:30
-, -, -
ランチがすごいことになっている!!
 当店1階の『十文字』のランチですが……、

すごいことになっているんです。

ランチで、石焼きシリーズが登場したのです。

石焼きうな丼ビビンバ風870

■石焼きうな丼のビビンバ風 870円

超高級魚となった「うなぎ」が入った石焼き丼です。

けっこううまくてハマります。

石焼きのおこげと鰻の香ばしさがクセになる。

このほかに、「なでしこポークの石焼き豚丼 850円」 と

「国産牛の石焼き牛丼 900円」 がシリーズで発表!

その他のランチもお知らせしますね。
author:清衛門, category:そうだ!十文字ランチへ行こう!, 21:35
-, -, -
生ビールが半額、焼鳥が4割〜半額!!夏の感謝フェア
 期間限定!!
8月27(月)〜31(金)の5日間
夕方5時から限定です。

生ビールと焼鳥割引

いつまでも暑いですね。

とか言ってるうちに、早いもので夏も終わり。

今年も(本当に何年も)海に行っていません。

車で15分程度で行けるのに、wwwww。


当店1階の十文字では、夕方5時から

アサヒの生ビールと宮崎地鶏の焼鳥を

夏の感謝割引でご奉仕中!!!

期間限定ですので、お急ぎください!
author:清衛門, category:十文字のお知らせ, 21:24
-, -, -
山本美香さん成田に無言の帰国
 山本美香ポートレートモノクロ
(NHK NEWS WEBより掲載)

このブログで数回にわたり掲載してきた山本美香さんが、成田に帰国しました。
故郷の山梨で、通夜と葬儀が営まれるそうです。

山本さんが、山梨放送に出演していた時のインタビューと関連記事をNHK NEWS WEB
がアップしていましたので転載します。


NHK NEWS WEB

 

山本美香さんが伝え続けた思い

824 2050


1

内戦状態が続くシリアで取材をしていたジャーナリストの山本美香さん(45)が、銃撃を受けて亡くなりました。

長年、世界の紛争地の最前線で仲間のジャーナリストとともに取材をしてきた山本さん。

山本さんが伝えたかった思いは、残された最後の映像を通して多くの人々に強く訴えかけています。

現地で取材をしたカイロ支局の西河篤俊記者、そして山本さんの出身地である山梨県甲府放送局の弦本康孝記者と北清杏奈キャスターが解説します。

市街地の銃撃戦に巻き込まれて

山本美香さんが巻き込まれた銃撃戦は、一見平穏そうな市街地で突然始まりました。

山本さんは長年取材活動をともにしてきた佐藤和孝さんと一緒に、反政府勢力・自由シリア軍のメンバーに同行してシリアでも最も激しい戦闘が続くアレッポを取材していました。


2

山本さんは銃声が鳴り響く街の様子を撮影する一方、戦火の街で暮らす市民の姿も取材していました。

人々が行き交う道路の先、迷彩服を着て隊列を組みながら歩いてくる集団が現れ、街の雰囲気は急変します。


3

佐藤さんは当初、同行していた自由シリア軍の仲間だと思ったと証言しています。

しかし、反政府勢力が身につけないヘルメットをかぶっているのに気づき「政府軍の兵士だ」と思ったそうです。

政府軍とみられる兵士たちが突然銃撃をはじめ、佐藤さんの3メートルほど後ろにいた山本さんとは、逃げる途中で離ればなれになりました。

銃撃は1時間ほど続き、佐藤さんが山本さんと再会したのは、近くの病院でした。
山本さんは首や腕などに銃弾を受け、すでに亡くなっていました。


先週、私たちNHK取材班はトルコとシリアの国境地帯で取材にあたっていた際、山本さんと佐藤さんに会っていました。

山本さんが亡くなる3日前のことです。

山本さんは元気そうな様子で、シリアで取材した映像を中継車から日本に伝送していました。

2人は近くアレッポに行くつもりだと話していたので、山本さんが戦闘に巻き込まれたという一報を聞いたときは衝撃を受けました。


内戦状態のシリア・アレッポとは

山本さんが亡くなったアレッポは今、ジャーナリストにとって最も危険な取材現場だと言われています。

山本さんが銃撃された日もアレッポで取材していたトルコのテレビ局のカメラマンは、拳銃に1発の弾をこめて誰が当たるのかを賭ける「ロシアンルーレット」にたとえ、「どこに行ってもさまざまな勢力の狙撃手がいて誰がどこから撃ってくるかまるで分からなかった」と話しています。


4

アレッポでは政府軍が支配する地域と反政府勢力が支配する地域が複雑に入り組んでいます。

さらに政府軍は戦闘機やヘリコプターからも爆撃しています。

佐藤さんは「これまで数多くの戦場で取材してきたが、今回のように街の真ん中を戦闘機が飛んで空爆するのを見たのは初めてでシリアという国が国民に対して行っている容赦のない暴力は驚きだった」と話していました。


5

ジャーナリストと戦場

戦場での取材は常に危険を伴います。

テロや攻撃に巻き込まれるジャーナリストはあとを絶ちません。

アサド政権は外国メディアの取材を厳しく制限しアレッポのような激しい戦闘が続く地域で取材許可を得るのは事実上不可能でした。

このため多くの外国メディアが反政府勢力が制圧したトルコとの国境検問所を通ってアレッポを目指しました。

政府軍がジャーナリストを攻撃の対象としているかどうかは定かではありませんが、敵である反政府勢力のそばにジャーナリストがいた場合でも、ためらいもなく攻撃すると考えられます。


6

山本さんは佐藤さんとともにアフガニスタンやイラクなどの戦場で取材を続けてきました。

危険を伴っても紛争地での取材を続けることについて佐藤さんは「戦闘の最前線がどうなっているか現場に行って確認するのはジャーナリスト精神の根本で、山本さんも覚悟していたと思う」と話していました。

長年行動をともにした山本さんを亡くした直後から佐藤さんは取材に応じています。

佐藤さんは「我々ジャーナリストはこういう現場で取材をする。逆に取材される立場になったから、やめてくれとは彼女なら絶対に言わない。彼女はシリアで何が起きているかを伝えるためにシリアに来たのだから私のことを応援してくれていると思う」と涙をこらえながら話していました。


7

“校庭に地雷が1つ埋まっているとしたら”

山本さんは7月4日、出身地である山梨県のNHK甲府放送局の番組に出演し、アフガニスタンの現状を語りました。

出演にあたって山本さんは「戦う兵士の姿や悲惨さだけでなく紛争地にも普通の人が住み、たくましく生きている様子を知ってもらいたい。バランスが大事、同情を誘うだけでは現実的ではない」と語っていました。


8

山本さんは子どもたちにもメッセージを伝えていました。

著書『戦争を取材する』では「校庭に地雷が1つ埋まっているとしたら」と子どもたちに問いかけています。

問いかけには”紛争地の子供たちの置かれている状況を身近に感じてほしい”という願いが強く込められています。

山本さんは本を書いたきっかけについて「小学校で講演をしたときに子どもたちが真剣に聞いている様子を見て、未来を作るのはあなたたちだと伝えたかった」と話していました。

家族の支え 世界へのきっかけは

山本さんのジャーナリスト活動を、家族も陰で支え続けていました。

実家の玄関には、山本さんが書いた記事が画びょうで止められていました。

父親の孝治さんは元新聞記者で、山本さんが取材に出かけるとき「ただ『頑張って』、そして『身の安全を。無事を祈る』と言うことが親として精一杯の言葉で、はなむけの言葉でした」と話していました。


9

母親の和子さんによりますと山本さんは小さいころから本をよく読んでいて、とくに動物の言葉を話せる主人公が世界中を旅して動物を助ける、イギリス人作家ヒュー・ロフティングの作品『ドリトル先生』のシリーズが大好きだったそうです。

「世界に関心を持ったのは本がきっかけだったかもしれない」と話していました。

日本の人たちに伝えたかった思い

山本さんは番組に出演する前に「みんなやむをえず戦っている。一人一人に、地球上で生きる同年代の人のことについて、思いをめぐらせて欲しい」と訴えていました。

また紛争地で暮らす“普通の人々”が戦渦に巻き込まれる状況について、「伝えることによって戦争が早く終わるかもしれないし、拡大するのを防ぐかもしれない」と語っていました。

“最後の映像”にも戦火に暮らす普通の人々が


山本さんが最後に撮影した映像にも、こだわりを持ち大切にしてきた思いがこめられていました。

赤ちゃん連れの人をみかけると、「かわいい」とおだやかな口調で言葉をかけていました。


10

ベランダから外の様子をうかがう家族の姿も撮影していました。

自由シリア軍が道路に車止めを設けるのを手伝う子どもたちなど、普通の人々の姿を追いかけていました。

佐藤さんは「力のない子どもや自分と同じ女性、過酷な状況で生きている人の声を伝えたいという強い信念を持っていた。彼女にはまだまだジャーナリストとしての未来があり、残念だっただろう、悔しかっただろうと思います」と話していました。

 
【ブログ後記】

この『花のたより心のたより』では、山本美香さんが亡くなられた当日から、様々なメディアの記事を参考にしたり、そのまま掲載してお知らせしてきました。

 

私自身も、若いころに報道のカメラマンをしていた時期がありましたが、人の死を数多く目にして、身体の故障と心の大きな変化とともにこの仕事から離れていった経緯があります。

 

山本さんを知ったのは、今から3年ほど前のテレビでした。

中東の都市で取材をしている姿を映像で見たのですが、彼女は自然体で明るく、素直で気負いがありませんでした。

 

戦場という特殊な現場において、精神を平常に保つことは、日本という平和で安全な場所で生まれ育った一般の人々には無理なほど過酷な現実が次々に襲いかかります。


それが日常であり、そして、そこに暮らす人々の唯一の故郷の現実なのです。

 

そのような中で、人々の生活や子供たちの笑顔を撮り続ける山本さんが、男ばかりの世界で頑張る姿に驚きすら覚えました。

そして、想像を絶する死と隣り合わせの現場に居ながら、女性の視点から、伝えることの厳しさと悲しみ、そしてそこに住む人々への優しさを撮り続けていたことにあらためて感銘を受けました。

 

志半ばで命を散らしたことは、とても残念であったでしょう。

でも、彼女の想い、希望、魂は必ず受け継がれて行くことでしょう。

 

『現実を伝えることで、戦争が少しでも早く終わることを希望してます』と言う、山本さんの言葉が心に染みわたります。

 

お疲れ様、本当にお疲れ様でした。

安らかに眠ってください。

そして、別の世界では、もっと楽しい、子供たちの笑顔を、人々が心から笑っている姿を撮影してください。(合掌)


author:清衛門, category:心のたより, 19:29
-, -, -
ホームページが新しくなりました!
 祝・開店 『新ホームページ!!』

約1カ月ほどかかりましたが、新しいホームページが
完成しました。

このブログへは、メインページ中ほどの左にある
【花のたより心のたより】をクリックして入れるように
なっています。


【十文字物語】をクリックすると、料理内容や細かな
イベントなど、より詳細な内容が見られます。


しばらくは扱いが慣れないかも知れませんが、
なるべく多く訪問して下さるようお願いいたします。




8月25日より
【新ランチメニュー登場!!】

石焼牛丼、

石焼うな丼、

なでしこポークの冷やしサラダうどん

国産牛のガーリックステーキ丼

などなど、

新しいメニューが加わりました。


ランチタイム限定で当面の間、販売する方向です。
ぜひ一度お試しください。
author:清衛門, category:かくじゅうのお知らせ, 09:27
-, -, -
高砂ゆり を飾ってみました
 屋上に自然に咲いていた「高砂ユリ」を飾りました
                                                                                                                                          
高砂ゆりを飾りました


かくじゅう2階のホールに 『高砂ゆり』をアレンジしてみました。

行燈の明かりが強くて、少し逆光気味ですが、それなりに

雰囲気がでています。

普段は、カサブランカのユリを飾ることが多いのですが、

作られた花と違って、野性的でおもねる感じが無くて

それでいて、はかなさがあります。

日持ちが弱そうですが、お客様に楽しんでいただけると思います。


耐え偲ぶ  野の百合今朝は壺に入り

明日のはかなさ  高砂の帆に
author:清衛門, category:花のたより, 00:40
-, -, -
山本美香さんの想い
 

山本美香さんの想い

山本美香正面
(やまもと・みか ジャーナリスト ジャパンプレス所属)

銃撃戦で死亡した山本美香さんが亡くなられてから、

丸1日が経過しました。


21日の当ブログでもお知らせしましたが、
その後、きょうのニュースなどで詳しく知った方も
多いのではないでしょうか。


時間を追うごとに、彼女の歩んできた情報が次々に

入ってきます。



「戦争地域で暮らす女性や子供たちを生の映像で伝えたい」

という視点を貫いて、最後までビデオを回していたと伝えられて
います。


突然、銃声が“タン、タン、タン、タン”と
乾いた音を響かせたあと、映像が大きく横にふられて
途切れました。

それが、山本さんの最後の映像でした。

 



山本さんは、朝日新聞の山梨版「マイタウン山梨」に
毎月
寄稿していました。



8月11日掲載の「オリンピックの熱戦の陰で」が
最後の
掲載文になりました。

 



今年1月から最後の8月までの、寄稿文を抜粋しながら

たどってみました。

 




戦争そして東日本大震災

2012114日(朝日新聞マイタウン山梨掲載)


命、はかなくも強靱


昨年は、激動の一年だった。
東日本大震災は、私たち日本人にとって忘れられない大惨事だ。

世界でも歴史に深く刻まれる出来事が起きた。

1月のチュニジア・ジャスミン革命に始まり、2月にエジプト、8月にリビアの独裁政権が終わりを告げた。

イエメンもまもなく政権交代となる。

この「アラブの春」現象は現在も進行中で、中東のシリアからは目を離せない。

反政府デモや活動はアラブ諸国以外の中国やロシアなどへも影響を及ぼしている。


時期は前後するが、5月にアメリカの特殊部隊の作戦でオサマ・ビンラディン容疑者が殺害されたことも大きな事件だった。

無差別テロの手法を使わず、ITを駆使した民衆の力で世界が変わる現実を彼はどう受け止めていたのだろうか。


12月、オバマ米大統領はイラク戦争終結を宣言し、米軍は完全撤退した。

9年余りで米軍兵士4400人以上、イラク市民10万人以上が犠牲となった。

年末年始にかけてイラクでは大規模テロ事件が相次いで発生している。
内戦に発展しかねない現地の混乱ぶりを見る限り、終結宣言はむなしく響く。



年末、県立男女共同参画推進センター・ぴゅあ富士で世界の戦争と平和について考える講演会を開いた。

来場者からは「自然災害の恐ろしさとは違う、人間の起こす戦争について、もっと考えていきたい」との感想があり、海外情勢に高い関心を寄せていることがわかった。

テレビ報道では伝えきれない戦地の現状をじっくりと報告する貴重な機会となった。



戦争と自然災害を同列に語れないが、それでも「忘れない」「忘れてはいけない」という言葉が、これほど心に深く突き刺さるのは、東日本大震災の衝撃と痛みを経験したからだろう。

それは、紛争地で暮らす人々が抱える苦しみと通じるところがある。


戦地を取材していると、人の命ははかなく、だが人の命は強靱(きょう・じん)だと感じる。


絶望のふちに立っても懸命に生きていく。そんな姿を私は何度も目にしてきたからだ。



被災した東北の小学生が、被災地と戦争を重ね合わせ「戦争でも地震と同じようにたくさんの人が死ぬと聞いた」と話すのをニュースで目にした。

どんなにつらくても苦しくても、立ち直ろうとする力、他者を思いやる心。その優しさとたくましさを大切にしてほしいと思った。




 

女子会の誘い イラクにまで


213


通信発達 隔世の感


このところ、携帯電話の通信障害がたびたび起きている。
メール、スケジュール帳、カメラ、目覚まし、ネット接続と機能が幅広くなり、依存度が高まった。
紛失や通信障害で「さあ困った」ということになる。


放送局に入社したころ、ポケットベルが大流行した。
会社から支給されたものの、最初は自宅に置き忘れたり、電池切れに気づかなかったり、うっかりミスをした。

ポケベルには通話機能がない。
連絡が入れば公衆電話からかけなおす必要があった。
中途半端な便利さだったが、重宝したものだ。



以前、アフガニスタンでは、電気や水道のインフラ整備よりも先に携帯電話のアンテナが建設されたと紹介した。

戦争などで固定電話網が破壊されてしまった国では、携帯電話は本当にありがたい存在だ。


つい最近まで、日本の携帯電話は、独自の通信方式と機器を採用していたので、海外で使えなかった。


コソボ紛争を取材していた90年代後半、イタリア人の記者が自分の携帯の背面を開けて、小さなチップを取り出したのを見て驚いた。

チップは電話番号が記録されたSIMカードと呼ばれるものだが、十数年前は知らなかった。

イタリアのSIMからコソボのSIMに入れ替えることで、現地にいる限り、国内通話料金で安くかけられるようになる。

国境を越えて行き来するヨーロッパの記者たちのワザだ。



それ以降、私も海外方式の携帯電話機を購入し、取材で訪問する先々でSIMを買い、入れ替えるのが当たり前になった。

いつのまにか私の手元には、各国のSIMがずらりとそろい、いくつもの電話番号を持つこととなった。



現在はエリアの拡大やスマートフォンの登場で、日本の携帯電話も様々な国でそのまま使える。



イラクで取材中の真夜中に日本でいつも使っている携帯電話が鳴った。

何事かとあわてて出てみると、「女子会」の誘いの電話だった。

日本からかけてきた電話の相手は「あのバグダッドにいるの?」と驚きながらも、すぐにつながり、まるで隣で話しているように音声がクリアだと感心していた。


便利になった分、頭の切り替えが忙しくなった。

携帯電話やネットがなかったころは、紛争地に行ったら帰国するまで日本に連絡しなかった。

電話一本かけるのに大変な手間と時間がかかるからだ。

1カ月の取材中、日本とすっかり隔絶した頭の中は、完全に取材モードに切り替わり、仕事に集中していた。


今は、安否報告のために毎日東京の同僚に電話をかけ、その時に日本の様子も耳にする。

大事件や事故が発生していれば気になり、心配になるが、アイドルの結婚がトップニュースなどと聞くと力が抜けそうになる。

日本の情報は知りたいけれど、内容によっては複雑な気持ちになる。

 




犠牲者の無念偲びながら


310


3・11 心に焼きつけ


インタビューで幼少時代の思い出を尋ねられることも多い。

話の内容に沿った写真を用意するのだが、この作業、楽しい半面、のめりこんだら大変だ。

屋根裏にしまい込んだアルバムを引っ張り出し、ぱらぱらとめくりだす。赤ちゃんのころの私、こんなにまん丸の顔してたのね。

小学校の集合写真も家族旅行の写真もしかめっ面かよそ見の「変顔」ばかりだ。
どうしてこんな表情になったのか記憶をたどり、家族に当時の様子を聞いてみると、かすかに残っていただけの思い出が大きく膨らみ、とても楽しい。

こんな風に思い出に浸っていると、あっという間に時間が過ぎてしまうのだ。



東日本大震災発生直後の被災地で目にしたのは、水につかり、泥にまみれたプリント写真だった。

津波にのまれた自宅跡を捜索していた母子は、「写真だけでも見つけたくて」と瓦礫(がれき)をかき分け、わずかな隙間に手を伸ばしていた。



震災後、被災地の写真を洗浄・復元するプロジェクトが話題を呼んだ。

大手フィルムメーカーが全国各地から参加した市民ボランティアに洗浄方法を伝授、数えきれないほどの写真がよみがえり、持ち主の元へとかえされた。


だが、今も引き取り手の見つからない膨大な写真が残されている。


仙台市の「おもいで再会ひろば」には、約25万枚の写真とランドセルや賞状、トロフィーなどが展示されている。

多くの被災者が家族や友人の姿を求めて来場し、連日、2千枚以上の写真が引き取られている。

写真の中の親しい人たちは、笑顔ばかりではない。
泣き顔の赤ちゃんやおどけたポーズの子供、結婚式や修学旅行、何げない日常のスナップ。

そこには積み重ねられた時間と人間の営みが記録されている。


突然、未来を奪われた犠牲者の無念を偲(しの)びながら、
今年の3・11を心に焼きつけよう。

 

 


イラクの砂嵐「ハムシーン」


4
14


軍事作戦も一刻停滞


先日の嵐は猛烈だった。


「ゲリラ豪雨」という呼び名が定着したのはここ数年のことだ。
それまでの天気予報では、集中豪雨、局地的に強い雨といった表現が使われていた。


そして新たに加わったのが「爆弾低気圧」。

広範囲に暴風雨、高波、大雪をもたらし、深刻な被害を引き起こす。
今回の春の嵐も九州から北海道まで列島を縦断しながら被害を拡大させた。

ゲリラ豪雨も爆弾低気圧も聞けばどんな空模様かピンときて、イメージしやすいけれど、紛争地を取材する私にとっては、耳にするとドキリとして、使うのを一瞬ためらってしまうような表現だ。



イラクでも嵐とともに季節が変わる。

毎年、3月下旬になると「ハムシーン」と呼ばれる砂嵐に見舞われ、冬から短い春へと季節が移り変わる。



2003年3月、私は首都バグダッドでイラク戦争を取材していた。

到着したばかりのころは、風が冷たく、厚手の上着が必要な冬の終わりの気候だった。


やがて米英軍の空爆が始まり、取材とテレビ中継に明け暮れていたある日、ハムシーンはやって来た。

夜通し続いた強風が連れてきたのだ。

前日までの晴天がうそのような急激な変化で、目に映る窓の外の世界は、すべてが砂色に変わってしまった。

取材で外に出ると、歩くのも困難なほど視界が悪く、パウダー状の砂が目やのどを傷めた。

全身ザラザラになり、カメラ機材もダメージを受けた。

砂混じりの雨が降りだすと野外での取材は中断せざるを得なかったが、ニュース番組で日本との生中継は、かろうじて続けることができ、ドロドロになりながら放送を終えた。



夕暮れになると砂色だったあたり一面が、血のような真っ赤な色に染まった。

それまで見たことのない不思議な景色だった。

空爆で多くの人々が犠牲になっている状況下だけに、まるで呪いのような、この先もっと不吉な出来事が起きる前触れのような、そんな気にさせる空気感だった。


「これほどの砂嵐は、経験したことがない」と50代のイラク人スタッフは驚いていた。
それでも不幸中の幸いだとばかりに「これで数日は、空爆がやむだろう」と安堵(あんど)した。

細かい砂粒が、戦闘機やヘリコプターのエンジンに入り込むと故障する危険性があるのだ。
レーダーにも影響を及ぼして、空爆の精度が著しく悪くなる。
歴史的にも異常な砂嵐が、ほんの一刻、軍事作戦を停滞させたようだった。



砂嵐が過ぎ去ると、汗ばむほどの陽気になり、強い日差しが照りつけた。

戦争中でなければ、人々は我先にと外に出て、砂をかぶった車を洗い、洗濯物を一斉に干すだろう。

子供たちはサッカーをして遊び、街角の茶屋では、双六(すごろく)のようなバックギャモンやドミノゲームを楽しむおじさんたちの姿が見られるだろう。


だが、砂嵐は去っても別の嵐は、ますます激しくなる一方で、爆弾の雨は降り続けた。

とても悲しい春の訪れだった。

 

 

 



桜並木に思う


5
19


原発事故被害の街も


桜前線が北海道にようやく到達し、桜の見ごろは、終わりに近づいている。
これからは若葉の眩(まぶ)しい季節だ。


駅から仕事場までの小道に1本の桜の老木がたっている。
毎年美しい花を咲かせていたが、一昨年、太い枝を刈り込まれてから、元気がなくなった。

来年もまた咲いてくれるか心配だ。

母校の都留文科大学に隣接する楽山公園にも素晴らしい桜並木があって、在学中は友人たちと散歩をしながら眺めた。

日常生活に溶け込んだ桜が一番心に残るものだ。



3月、福島県いわき市の避難先で出会った雅子さん(45)の一時帰宅に同行した。

自宅がある浪江町は、東京電力福島第一原発の放射能の影響で帰還困難区域に指定されている。


海岸線から500メートルほどの請戸小学校は、毎時0・29マイクロシーベルト(浪江町空間放射線量調査)と町内では比較的低い値だが、津波で校舎の1階が破壊され、周辺の家々は流された。

陸に打ち上げられた漁船や鉄の塊(かたまり)となった車が仮の集積地に山積みになっていた。

雅子さんが夫と1男1女の4人で暮らしていた大堀地区の自宅周辺はホットスポットで、私が持参した線量計は、毎時9マイクロシーベルトを超えた。

屋内に入っても窓際は5マイクロシーベルト以上。

防護服とマスクを着用したまま、泥棒の被害がないか、窓のカギは閉まっているか、念入りに点検して回った。

床の間には雛(ひな)人形が飾られ、1年前から時が止まったままだ。


「地震後に片づける間もなく避難したから、めちゃくちゃね」。

雅子さんは、散乱した日用品を一通り片づけながら何かを捜していた。



「あら、こんなところに落ちていたの」。

うれしそうに拾い上げたのはネックレスだった。

昨年夏の一時帰宅では、どうしても見つけられず、ずっと気にかかっていたのだ。

それは、10年前に亡くなった母の形見のネックレスだった。



自宅を離れ中学校へ向かう。

娘からどうしてもと頼まれた校舎の写真を車内から撮る雅子さん。



「この先にきれいな桜並木があって、毎年、家族でお花見に行っていたのよ。もう行けないのね」。

町内の桜の名所、泉田川堤防の桜は、今年も見事な花を咲かせただろう。

しかし、その美しい姿を眺めることはできない。

これから何年先までも。

 
 

 

 




天体ショーの当たり年


6
16


心躍る宇宙の不思議


ここのところ、天体ショーが続き、空を眺めるのが楽しい。

先日の金環日食も東京で次に見ることができるのは300年後と聞けば、夜型の私も「絶対見るぞ」と早起きだ。


5月21日の東京の朝は薄曇り。

屋上で日食グラス片手に空を仰いでいると、お隣さんも窓から顔を出している。

少し離れたマンションのベランダにも家族の姿。
目の前の小さな公園は、驚くほどの人だかりで、多くの人が望遠鏡やカメラを構えて、その瞬間を待っていた。

「見て、輪になった!」。

集まった子供たちがはしゃいでいる。

薄い雲がかかったことで、金環がくっきりと見えた。

大人も子供も空を見上げ、壮大な宇宙の神秘に浸った朝だった。



幼いころ考古学者になりたい、世界一周、いつかは宇宙旅行をしてみたい。
そんな憧れを抱いていた。


10代前半に夢中になったのが、アメリカの天文学者カール・セーガン博士が監修した「コスモス・宇宙」の番組や科学ビジュアル本だ。

テレビや写真で目にするアンドロメダ星雲やプレアデス星団(すばる)の美しい輝きは、私の心をはるかかなたの宇宙へといざなった。

実際に外に出ると山梨の夜空にも北斗七星やオリオン座、天の川が豊富な流れを見せ、すばるの小さな光まで確認できた。



惑星直列が話題になったのは30年ぐらい前だろうか。

私は何百年に一度という言葉に心を躍らせ、望遠鏡をのぞき、新聞や雑誌を読みあさった記憶がある。

今のようにインターネットがなかったので、調べ物は一苦労だったが、それがまた楽しかったのだ。

夜空に一直線に並んだ(ように見えた)惑星を写真に収めたくて父のカメラを借り、星の撮影方法を教わった。

富士山の方角に三つの惑星が並んだお気に入りの写真。

どこにしまいこんだのだろう。



海外取材では、山奥の村や砂漠地帯など電気のないほの暗い場所を訪れることが多い。

ハードな取材を終えた夜に、ふと見上げた星空の美しさは忘れられない。

思い出深いのは、標高2500メートルのアフガニスタンのバーミヤンで眺めた星空だ。

今は破壊されてしまった巨大石仏像の上空に満天の星が瞬いていた。

石仏は千数百年以上も前からこの星空を眺めていたのだ。

悠久の歴史をしみじみと感じた。



人里離れた渓谷で突然車が立ち往生したときには、星を眺めて時間をつぶした。

暗闇の中では他にすることもできることもなかったのだ。

エンジンはいつかかるかわからない。

「自分は日本からはるか遠く離れた戦乱の地にいる。私の居場所を知っているのは、ほんの一握りの人だけだ」。

そう思うと不安だけれど自由になったような不思議な気持ちだった。

 

 

 

 

 

スポーツの楽しみ

714

 

意外な国で日本応援


海外に電話で取材をしていると、時差の違いで夜中になることが多い。


一息ついてふとテレビをみると、テニスのウィンブルドン選手権に錦織圭選手が出場していた。

世界ランキング20位の日本期待の星だ。

大会初勝利がかかった試合となれば、録画でも最後まで見たくなる。

途中足首をねんざしたものの、得意技「エア・ケイ」を披露して、ストレート勝ち。

2時間半の試合を見終えると、空がすっかり白んでいた。



中学時代、部活のテニスに熱中したせいか、ショット音を聞くと、体育会系のスイッチが入るようだ。

テニスに限らず、国際試合はやはり見応えがある。


先日のサッカーワールドカップアジア地区最終予選のヨルダン戦は、6対0で圧勝。
日本チーム、本当に強くなったと感心する。




1998年のフランス大会期間中は、コソボで取材中だった。

当時、コソボはユーゴスラビア連邦共和国からの独立をめざす民族紛争のさなかで、私は、ウチャカ(コソボ解放軍)と呼ばれる反政府ゲリラの活動を取材していた。

そのため、政府系のホテルを避け、アルバニア人通訳の家に滞在しながらゲリラ解放区に潜入した。



通訳のネジャさんは、どんな過酷な取材にも同行する正義感の強い女性で、夫と3人の子供と暮らしていた。

音楽家の夫は、普段は物静かだが、お酒が入るとクラリネットを奏で陽気になる。

家族がメロディーにあわせて歌い出せばミニ演奏会だ。

明るく気さくな一家と過ごしたことで、精神的にも随分と助けられた。



ある日、フランス大会の日本対クロアチア戦がテレビで放映された。

コソボの人たちは、同じユーゴ連邦のクロアチアを応援すると思ったが、そうではなかった。

コソボのアルバニア人はイスラム教徒がほとんどで、クロアチアはキリスト教徒が多いからだ。

これが紛争の背景にもつながっている。



ネジャ一家は、クロアチアよりも日本を応援すると宣言した。

コソボの人たちはサッカーが大好きで応援にも力が入る。

日本代表が少しでもミスをすると「ガンバレ」と大騒ぎ。
日本人の私よりも彼らの方が熱心なサポーターになっていた。

この試合には、山梨出身の中田英寿選手や、ゴンこと中山雅史選手、守護神のゴールキーパー川口能活選手ら、懐かしい選手が出場していたが、
0対1で負けてしまった。



厳しい取材が続いても、こうした日々の触れ合いが、気持ちにゆとりを持たせてくれるのだ。
 








オリンピックの熱戦の陰で


8
11


内戦シリアにも目を


残暑お見舞い申し上げます。
連日のオリンピック観戦で、睡眠不足ではありませんか?



サッカーは男女ともに決勝トーナメント進出の快挙。

体操の内村航平選手は個人総合で「金」に輝き、競泳では次々とメダルを取った。

選手たちの喜びや悔し涙のドラマが日本にたくさん届いている。



第30回夏季ロンドン五輪には204の国と地域が参加。
開会式の入場行進はオリンピック発祥の地で、現在、財政難で苦しむギリシャからスタートした。

続いてアルファベット順にアフガニスタン、アルバニア、アルジェリアと続いた。

偶然だが、この三つの国は、紛争や騒乱の取材で訪れたことのある国だ。



アフガニスタンは前回の北京五輪で初のメダルを獲得した。

現地では、足腰の強さを生かした格闘技が大人気で、首都カブールには有名選手たちのポスターがあちこちにはられている。

男子テコンドーで銅メダルをとった選手は、戦争ばかりの国に希望をもたらした英雄で、子供たちのあこがれの的でもある。




ところでイスラム国出身の女子選手がスカーフをかぶり、肌を覆うユニホームで出場しているのを見たことがあるだろう。

柔道女子のサウジアラビア代表選手は、ヘジャブと呼ばれるスカーフの着用を禁止されたため、出場が危ぶまれていたが、特例として着用を許可された。

イスラム社会では、個人よりも家族や一族の意見が重要視されることが多い。

夫や父がスポーツなどするなと言えば、妻や娘は従わざるを得ない。

イスラム保守派の批判をかわすために、自らの意志でスカーフを着用する選手もいる。

しかし、それが国際試合のルールにそぐわなければ、出場をあきらめなければならない。

自国の文化と世界基準との板挟みになりながら、出場のチャンスをつかんだ女性たちにエールを送りたい。




さて、ロンドンで熱戦が繰り広げられるなか、中東のシリアでは大変な事態が進行している。

「アラブの春」の最終段階ともいわれるシリア危機はもはや危機をはるかに超えて内戦となった。

首都ダマスカス、第2の商業都市アレッポが、政府軍と自由シリア軍(反体制派)との戦いでめちゃくちゃに破壊されているのだ。

アサド大統領も「内戦である」と認めたものの、和平交渉を退け、武力鎮圧に舵(かじ)を切った。

国連の停戦監視団の活動も暗礁に乗り上げている。



7月、国境の一部が反体制派の手に落ち、大量の難民が周辺国に押し寄せた。

この数カ月間に登録された難民数は11万人以上に膨れ上がっている。

シリアは化学兵器の保有国だ。



もし、化学兵器が使われたら?

もし、国外に流出したら?

懸念は深まるばかりだ。



シリアもオリンピックに出場している。

国旗とともに入場した選手たちは、笑顔を見せていたが、心穏やかではないだろう。

素晴らしい成績を残しても、国や国民に祝福するゆとりはない。


五輪組織委員会の会長は「世界の人々を協調、友情、平和のきずなで結ぶオリンピック」とあいさつした。


華やかな祭典の陰で、日々、無辜(むこ)の人々が逃げ惑い、命を奪われ続けるもうひとつの現実にも目を向けたい。




この記事が、朝日新聞「マイタウン山梨」に掲載された最後のものに
なりました。 

 

 

 



山本さんの姉日本を出発

「よく頑張った、 一緒に帰ろう」

シリアで取材中に死亡した山本美香さんの遺族が、遺体の安置されているトルコへ向け、22日正午の便で出発しました。

出発を前に、山本さんの姉・品川留美さんは、声を詰まらせながら山本さんへの思いを語りました。

“しっかり現実を受け止めて、 しっかり妹を引き取って、 早く両親の元に帰して、ゆっくり眠らせてあげたいです。

本人も言っていましたけれど、『誰かが実際の目で見て、誰かが伝えていかないと、本当の現実が知らせられない』。
それは私たちもそう思いまっていますので、妹ながら、ジャーナリスト魂にたけた、素晴らしい人間だったと思っています。

『よく頑張ったね。もうそんなに気を張らなくていいから、一緒に帰ろう』と言ってあげたいです”

author:清衛門, category:心のたより, 21:59
-, -, -