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山本美香さんの想い
 

山本美香さんの想い

山本美香正面
(やまもと・みか ジャーナリスト ジャパンプレス所属)

銃撃戦で死亡した山本美香さんが亡くなられてから、

丸1日が経過しました。


21日の当ブログでもお知らせしましたが、
その後、きょうのニュースなどで詳しく知った方も
多いのではないでしょうか。


時間を追うごとに、彼女の歩んできた情報が次々に

入ってきます。



「戦争地域で暮らす女性や子供たちを生の映像で伝えたい」

という視点を貫いて、最後までビデオを回していたと伝えられて
います。


突然、銃声が“タン、タン、タン、タン”と
乾いた音を響かせたあと、映像が大きく横にふられて
途切れました。

それが、山本さんの最後の映像でした。

 



山本さんは、朝日新聞の山梨版「マイタウン山梨」に
毎月
寄稿していました。



8月11日掲載の「オリンピックの熱戦の陰で」が
最後の
掲載文になりました。

 



今年1月から最後の8月までの、寄稿文を抜粋しながら

たどってみました。

 




戦争そして東日本大震災

2012114日(朝日新聞マイタウン山梨掲載)


命、はかなくも強靱


昨年は、激動の一年だった。
東日本大震災は、私たち日本人にとって忘れられない大惨事だ。

世界でも歴史に深く刻まれる出来事が起きた。

1月のチュニジア・ジャスミン革命に始まり、2月にエジプト、8月にリビアの独裁政権が終わりを告げた。

イエメンもまもなく政権交代となる。

この「アラブの春」現象は現在も進行中で、中東のシリアからは目を離せない。

反政府デモや活動はアラブ諸国以外の中国やロシアなどへも影響を及ぼしている。


時期は前後するが、5月にアメリカの特殊部隊の作戦でオサマ・ビンラディン容疑者が殺害されたことも大きな事件だった。

無差別テロの手法を使わず、ITを駆使した民衆の力で世界が変わる現実を彼はどう受け止めていたのだろうか。


12月、オバマ米大統領はイラク戦争終結を宣言し、米軍は完全撤退した。

9年余りで米軍兵士4400人以上、イラク市民10万人以上が犠牲となった。

年末年始にかけてイラクでは大規模テロ事件が相次いで発生している。
内戦に発展しかねない現地の混乱ぶりを見る限り、終結宣言はむなしく響く。



年末、県立男女共同参画推進センター・ぴゅあ富士で世界の戦争と平和について考える講演会を開いた。

来場者からは「自然災害の恐ろしさとは違う、人間の起こす戦争について、もっと考えていきたい」との感想があり、海外情勢に高い関心を寄せていることがわかった。

テレビ報道では伝えきれない戦地の現状をじっくりと報告する貴重な機会となった。



戦争と自然災害を同列に語れないが、それでも「忘れない」「忘れてはいけない」という言葉が、これほど心に深く突き刺さるのは、東日本大震災の衝撃と痛みを経験したからだろう。

それは、紛争地で暮らす人々が抱える苦しみと通じるところがある。


戦地を取材していると、人の命ははかなく、だが人の命は強靱(きょう・じん)だと感じる。


絶望のふちに立っても懸命に生きていく。そんな姿を私は何度も目にしてきたからだ。



被災した東北の小学生が、被災地と戦争を重ね合わせ「戦争でも地震と同じようにたくさんの人が死ぬと聞いた」と話すのをニュースで目にした。

どんなにつらくても苦しくても、立ち直ろうとする力、他者を思いやる心。その優しさとたくましさを大切にしてほしいと思った。




 

女子会の誘い イラクにまで


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通信発達 隔世の感


このところ、携帯電話の通信障害がたびたび起きている。
メール、スケジュール帳、カメラ、目覚まし、ネット接続と機能が幅広くなり、依存度が高まった。
紛失や通信障害で「さあ困った」ということになる。


放送局に入社したころ、ポケットベルが大流行した。
会社から支給されたものの、最初は自宅に置き忘れたり、電池切れに気づかなかったり、うっかりミスをした。

ポケベルには通話機能がない。
連絡が入れば公衆電話からかけなおす必要があった。
中途半端な便利さだったが、重宝したものだ。



以前、アフガニスタンでは、電気や水道のインフラ整備よりも先に携帯電話のアンテナが建設されたと紹介した。

戦争などで固定電話網が破壊されてしまった国では、携帯電話は本当にありがたい存在だ。


つい最近まで、日本の携帯電話は、独自の通信方式と機器を採用していたので、海外で使えなかった。


コソボ紛争を取材していた90年代後半、イタリア人の記者が自分の携帯の背面を開けて、小さなチップを取り出したのを見て驚いた。

チップは電話番号が記録されたSIMカードと呼ばれるものだが、十数年前は知らなかった。

イタリアのSIMからコソボのSIMに入れ替えることで、現地にいる限り、国内通話料金で安くかけられるようになる。

国境を越えて行き来するヨーロッパの記者たちのワザだ。



それ以降、私も海外方式の携帯電話機を購入し、取材で訪問する先々でSIMを買い、入れ替えるのが当たり前になった。

いつのまにか私の手元には、各国のSIMがずらりとそろい、いくつもの電話番号を持つこととなった。



現在はエリアの拡大やスマートフォンの登場で、日本の携帯電話も様々な国でそのまま使える。



イラクで取材中の真夜中に日本でいつも使っている携帯電話が鳴った。

何事かとあわてて出てみると、「女子会」の誘いの電話だった。

日本からかけてきた電話の相手は「あのバグダッドにいるの?」と驚きながらも、すぐにつながり、まるで隣で話しているように音声がクリアだと感心していた。


便利になった分、頭の切り替えが忙しくなった。

携帯電話やネットがなかったころは、紛争地に行ったら帰国するまで日本に連絡しなかった。

電話一本かけるのに大変な手間と時間がかかるからだ。

1カ月の取材中、日本とすっかり隔絶した頭の中は、完全に取材モードに切り替わり、仕事に集中していた。


今は、安否報告のために毎日東京の同僚に電話をかけ、その時に日本の様子も耳にする。

大事件や事故が発生していれば気になり、心配になるが、アイドルの結婚がトップニュースなどと聞くと力が抜けそうになる。

日本の情報は知りたいけれど、内容によっては複雑な気持ちになる。

 




犠牲者の無念偲びながら


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3・11 心に焼きつけ


インタビューで幼少時代の思い出を尋ねられることも多い。

話の内容に沿った写真を用意するのだが、この作業、楽しい半面、のめりこんだら大変だ。

屋根裏にしまい込んだアルバムを引っ張り出し、ぱらぱらとめくりだす。赤ちゃんのころの私、こんなにまん丸の顔してたのね。

小学校の集合写真も家族旅行の写真もしかめっ面かよそ見の「変顔」ばかりだ。
どうしてこんな表情になったのか記憶をたどり、家族に当時の様子を聞いてみると、かすかに残っていただけの思い出が大きく膨らみ、とても楽しい。

こんな風に思い出に浸っていると、あっという間に時間が過ぎてしまうのだ。



東日本大震災発生直後の被災地で目にしたのは、水につかり、泥にまみれたプリント写真だった。

津波にのまれた自宅跡を捜索していた母子は、「写真だけでも見つけたくて」と瓦礫(がれき)をかき分け、わずかな隙間に手を伸ばしていた。



震災後、被災地の写真を洗浄・復元するプロジェクトが話題を呼んだ。

大手フィルムメーカーが全国各地から参加した市民ボランティアに洗浄方法を伝授、数えきれないほどの写真がよみがえり、持ち主の元へとかえされた。


だが、今も引き取り手の見つからない膨大な写真が残されている。


仙台市の「おもいで再会ひろば」には、約25万枚の写真とランドセルや賞状、トロフィーなどが展示されている。

多くの被災者が家族や友人の姿を求めて来場し、連日、2千枚以上の写真が引き取られている。

写真の中の親しい人たちは、笑顔ばかりではない。
泣き顔の赤ちゃんやおどけたポーズの子供、結婚式や修学旅行、何げない日常のスナップ。

そこには積み重ねられた時間と人間の営みが記録されている。


突然、未来を奪われた犠牲者の無念を偲(しの)びながら、
今年の3・11を心に焼きつけよう。

 

 


イラクの砂嵐「ハムシーン」


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軍事作戦も一刻停滞


先日の嵐は猛烈だった。


「ゲリラ豪雨」という呼び名が定着したのはここ数年のことだ。
それまでの天気予報では、集中豪雨、局地的に強い雨といった表現が使われていた。


そして新たに加わったのが「爆弾低気圧」。

広範囲に暴風雨、高波、大雪をもたらし、深刻な被害を引き起こす。
今回の春の嵐も九州から北海道まで列島を縦断しながら被害を拡大させた。

ゲリラ豪雨も爆弾低気圧も聞けばどんな空模様かピンときて、イメージしやすいけれど、紛争地を取材する私にとっては、耳にするとドキリとして、使うのを一瞬ためらってしまうような表現だ。



イラクでも嵐とともに季節が変わる。

毎年、3月下旬になると「ハムシーン」と呼ばれる砂嵐に見舞われ、冬から短い春へと季節が移り変わる。



2003年3月、私は首都バグダッドでイラク戦争を取材していた。

到着したばかりのころは、風が冷たく、厚手の上着が必要な冬の終わりの気候だった。


やがて米英軍の空爆が始まり、取材とテレビ中継に明け暮れていたある日、ハムシーンはやって来た。

夜通し続いた強風が連れてきたのだ。

前日までの晴天がうそのような急激な変化で、目に映る窓の外の世界は、すべてが砂色に変わってしまった。

取材で外に出ると、歩くのも困難なほど視界が悪く、パウダー状の砂が目やのどを傷めた。

全身ザラザラになり、カメラ機材もダメージを受けた。

砂混じりの雨が降りだすと野外での取材は中断せざるを得なかったが、ニュース番組で日本との生中継は、かろうじて続けることができ、ドロドロになりながら放送を終えた。



夕暮れになると砂色だったあたり一面が、血のような真っ赤な色に染まった。

それまで見たことのない不思議な景色だった。

空爆で多くの人々が犠牲になっている状況下だけに、まるで呪いのような、この先もっと不吉な出来事が起きる前触れのような、そんな気にさせる空気感だった。


「これほどの砂嵐は、経験したことがない」と50代のイラク人スタッフは驚いていた。
それでも不幸中の幸いだとばかりに「これで数日は、空爆がやむだろう」と安堵(あんど)した。

細かい砂粒が、戦闘機やヘリコプターのエンジンに入り込むと故障する危険性があるのだ。
レーダーにも影響を及ぼして、空爆の精度が著しく悪くなる。
歴史的にも異常な砂嵐が、ほんの一刻、軍事作戦を停滞させたようだった。



砂嵐が過ぎ去ると、汗ばむほどの陽気になり、強い日差しが照りつけた。

戦争中でなければ、人々は我先にと外に出て、砂をかぶった車を洗い、洗濯物を一斉に干すだろう。

子供たちはサッカーをして遊び、街角の茶屋では、双六(すごろく)のようなバックギャモンやドミノゲームを楽しむおじさんたちの姿が見られるだろう。


だが、砂嵐は去っても別の嵐は、ますます激しくなる一方で、爆弾の雨は降り続けた。

とても悲しい春の訪れだった。

 

 

 



桜並木に思う


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原発事故被害の街も


桜前線が北海道にようやく到達し、桜の見ごろは、終わりに近づいている。
これからは若葉の眩(まぶ)しい季節だ。


駅から仕事場までの小道に1本の桜の老木がたっている。
毎年美しい花を咲かせていたが、一昨年、太い枝を刈り込まれてから、元気がなくなった。

来年もまた咲いてくれるか心配だ。

母校の都留文科大学に隣接する楽山公園にも素晴らしい桜並木があって、在学中は友人たちと散歩をしながら眺めた。

日常生活に溶け込んだ桜が一番心に残るものだ。



3月、福島県いわき市の避難先で出会った雅子さん(45)の一時帰宅に同行した。

自宅がある浪江町は、東京電力福島第一原発の放射能の影響で帰還困難区域に指定されている。


海岸線から500メートルほどの請戸小学校は、毎時0・29マイクロシーベルト(浪江町空間放射線量調査)と町内では比較的低い値だが、津波で校舎の1階が破壊され、周辺の家々は流された。

陸に打ち上げられた漁船や鉄の塊(かたまり)となった車が仮の集積地に山積みになっていた。

雅子さんが夫と1男1女の4人で暮らしていた大堀地区の自宅周辺はホットスポットで、私が持参した線量計は、毎時9マイクロシーベルトを超えた。

屋内に入っても窓際は5マイクロシーベルト以上。

防護服とマスクを着用したまま、泥棒の被害がないか、窓のカギは閉まっているか、念入りに点検して回った。

床の間には雛(ひな)人形が飾られ、1年前から時が止まったままだ。


「地震後に片づける間もなく避難したから、めちゃくちゃね」。

雅子さんは、散乱した日用品を一通り片づけながら何かを捜していた。



「あら、こんなところに落ちていたの」。

うれしそうに拾い上げたのはネックレスだった。

昨年夏の一時帰宅では、どうしても見つけられず、ずっと気にかかっていたのだ。

それは、10年前に亡くなった母の形見のネックレスだった。



自宅を離れ中学校へ向かう。

娘からどうしてもと頼まれた校舎の写真を車内から撮る雅子さん。



「この先にきれいな桜並木があって、毎年、家族でお花見に行っていたのよ。もう行けないのね」。

町内の桜の名所、泉田川堤防の桜は、今年も見事な花を咲かせただろう。

しかし、その美しい姿を眺めることはできない。

これから何年先までも。

 
 

 

 




天体ショーの当たり年


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心躍る宇宙の不思議


ここのところ、天体ショーが続き、空を眺めるのが楽しい。

先日の金環日食も東京で次に見ることができるのは300年後と聞けば、夜型の私も「絶対見るぞ」と早起きだ。


5月21日の東京の朝は薄曇り。

屋上で日食グラス片手に空を仰いでいると、お隣さんも窓から顔を出している。

少し離れたマンションのベランダにも家族の姿。
目の前の小さな公園は、驚くほどの人だかりで、多くの人が望遠鏡やカメラを構えて、その瞬間を待っていた。

「見て、輪になった!」。

集まった子供たちがはしゃいでいる。

薄い雲がかかったことで、金環がくっきりと見えた。

大人も子供も空を見上げ、壮大な宇宙の神秘に浸った朝だった。



幼いころ考古学者になりたい、世界一周、いつかは宇宙旅行をしてみたい。
そんな憧れを抱いていた。


10代前半に夢中になったのが、アメリカの天文学者カール・セーガン博士が監修した「コスモス・宇宙」の番組や科学ビジュアル本だ。

テレビや写真で目にするアンドロメダ星雲やプレアデス星団(すばる)の美しい輝きは、私の心をはるかかなたの宇宙へといざなった。

実際に外に出ると山梨の夜空にも北斗七星やオリオン座、天の川が豊富な流れを見せ、すばるの小さな光まで確認できた。



惑星直列が話題になったのは30年ぐらい前だろうか。

私は何百年に一度という言葉に心を躍らせ、望遠鏡をのぞき、新聞や雑誌を読みあさった記憶がある。

今のようにインターネットがなかったので、調べ物は一苦労だったが、それがまた楽しかったのだ。

夜空に一直線に並んだ(ように見えた)惑星を写真に収めたくて父のカメラを借り、星の撮影方法を教わった。

富士山の方角に三つの惑星が並んだお気に入りの写真。

どこにしまいこんだのだろう。



海外取材では、山奥の村や砂漠地帯など電気のないほの暗い場所を訪れることが多い。

ハードな取材を終えた夜に、ふと見上げた星空の美しさは忘れられない。

思い出深いのは、標高2500メートルのアフガニスタンのバーミヤンで眺めた星空だ。

今は破壊されてしまった巨大石仏像の上空に満天の星が瞬いていた。

石仏は千数百年以上も前からこの星空を眺めていたのだ。

悠久の歴史をしみじみと感じた。



人里離れた渓谷で突然車が立ち往生したときには、星を眺めて時間をつぶした。

暗闇の中では他にすることもできることもなかったのだ。

エンジンはいつかかるかわからない。

「自分は日本からはるか遠く離れた戦乱の地にいる。私の居場所を知っているのは、ほんの一握りの人だけだ」。

そう思うと不安だけれど自由になったような不思議な気持ちだった。

 

 

 

 

 

スポーツの楽しみ

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意外な国で日本応援


海外に電話で取材をしていると、時差の違いで夜中になることが多い。


一息ついてふとテレビをみると、テニスのウィンブルドン選手権に錦織圭選手が出場していた。

世界ランキング20位の日本期待の星だ。

大会初勝利がかかった試合となれば、録画でも最後まで見たくなる。

途中足首をねんざしたものの、得意技「エア・ケイ」を披露して、ストレート勝ち。

2時間半の試合を見終えると、空がすっかり白んでいた。



中学時代、部活のテニスに熱中したせいか、ショット音を聞くと、体育会系のスイッチが入るようだ。

テニスに限らず、国際試合はやはり見応えがある。


先日のサッカーワールドカップアジア地区最終予選のヨルダン戦は、6対0で圧勝。
日本チーム、本当に強くなったと感心する。




1998年のフランス大会期間中は、コソボで取材中だった。

当時、コソボはユーゴスラビア連邦共和国からの独立をめざす民族紛争のさなかで、私は、ウチャカ(コソボ解放軍)と呼ばれる反政府ゲリラの活動を取材していた。

そのため、政府系のホテルを避け、アルバニア人通訳の家に滞在しながらゲリラ解放区に潜入した。



通訳のネジャさんは、どんな過酷な取材にも同行する正義感の強い女性で、夫と3人の子供と暮らしていた。

音楽家の夫は、普段は物静かだが、お酒が入るとクラリネットを奏で陽気になる。

家族がメロディーにあわせて歌い出せばミニ演奏会だ。

明るく気さくな一家と過ごしたことで、精神的にも随分と助けられた。



ある日、フランス大会の日本対クロアチア戦がテレビで放映された。

コソボの人たちは、同じユーゴ連邦のクロアチアを応援すると思ったが、そうではなかった。

コソボのアルバニア人はイスラム教徒がほとんどで、クロアチアはキリスト教徒が多いからだ。

これが紛争の背景にもつながっている。



ネジャ一家は、クロアチアよりも日本を応援すると宣言した。

コソボの人たちはサッカーが大好きで応援にも力が入る。

日本代表が少しでもミスをすると「ガンバレ」と大騒ぎ。
日本人の私よりも彼らの方が熱心なサポーターになっていた。

この試合には、山梨出身の中田英寿選手や、ゴンこと中山雅史選手、守護神のゴールキーパー川口能活選手ら、懐かしい選手が出場していたが、
0対1で負けてしまった。



厳しい取材が続いても、こうした日々の触れ合いが、気持ちにゆとりを持たせてくれるのだ。
 








オリンピックの熱戦の陰で


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内戦シリアにも目を


残暑お見舞い申し上げます。
連日のオリンピック観戦で、睡眠不足ではありませんか?



サッカーは男女ともに決勝トーナメント進出の快挙。

体操の内村航平選手は個人総合で「金」に輝き、競泳では次々とメダルを取った。

選手たちの喜びや悔し涙のドラマが日本にたくさん届いている。



第30回夏季ロンドン五輪には204の国と地域が参加。
開会式の入場行進はオリンピック発祥の地で、現在、財政難で苦しむギリシャからスタートした。

続いてアルファベット順にアフガニスタン、アルバニア、アルジェリアと続いた。

偶然だが、この三つの国は、紛争や騒乱の取材で訪れたことのある国だ。



アフガニスタンは前回の北京五輪で初のメダルを獲得した。

現地では、足腰の強さを生かした格闘技が大人気で、首都カブールには有名選手たちのポスターがあちこちにはられている。

男子テコンドーで銅メダルをとった選手は、戦争ばかりの国に希望をもたらした英雄で、子供たちのあこがれの的でもある。




ところでイスラム国出身の女子選手がスカーフをかぶり、肌を覆うユニホームで出場しているのを見たことがあるだろう。

柔道女子のサウジアラビア代表選手は、ヘジャブと呼ばれるスカーフの着用を禁止されたため、出場が危ぶまれていたが、特例として着用を許可された。

イスラム社会では、個人よりも家族や一族の意見が重要視されることが多い。

夫や父がスポーツなどするなと言えば、妻や娘は従わざるを得ない。

イスラム保守派の批判をかわすために、自らの意志でスカーフを着用する選手もいる。

しかし、それが国際試合のルールにそぐわなければ、出場をあきらめなければならない。

自国の文化と世界基準との板挟みになりながら、出場のチャンスをつかんだ女性たちにエールを送りたい。




さて、ロンドンで熱戦が繰り広げられるなか、中東のシリアでは大変な事態が進行している。

「アラブの春」の最終段階ともいわれるシリア危機はもはや危機をはるかに超えて内戦となった。

首都ダマスカス、第2の商業都市アレッポが、政府軍と自由シリア軍(反体制派)との戦いでめちゃくちゃに破壊されているのだ。

アサド大統領も「内戦である」と認めたものの、和平交渉を退け、武力鎮圧に舵(かじ)を切った。

国連の停戦監視団の活動も暗礁に乗り上げている。



7月、国境の一部が反体制派の手に落ち、大量の難民が周辺国に押し寄せた。

この数カ月間に登録された難民数は11万人以上に膨れ上がっている。

シリアは化学兵器の保有国だ。



もし、化学兵器が使われたら?

もし、国外に流出したら?

懸念は深まるばかりだ。



シリアもオリンピックに出場している。

国旗とともに入場した選手たちは、笑顔を見せていたが、心穏やかではないだろう。

素晴らしい成績を残しても、国や国民に祝福するゆとりはない。


五輪組織委員会の会長は「世界の人々を協調、友情、平和のきずなで結ぶオリンピック」とあいさつした。


華やかな祭典の陰で、日々、無辜(むこ)の人々が逃げ惑い、命を奪われ続けるもうひとつの現実にも目を向けたい。




この記事が、朝日新聞「マイタウン山梨」に掲載された最後のものに
なりました。 

 

 

 



山本さんの姉日本を出発

「よく頑張った、 一緒に帰ろう」

シリアで取材中に死亡した山本美香さんの遺族が、遺体の安置されているトルコへ向け、22日正午の便で出発しました。

出発を前に、山本さんの姉・品川留美さんは、声を詰まらせながら山本さんへの思いを語りました。

“しっかり現実を受け止めて、 しっかり妹を引き取って、 早く両親の元に帰して、ゆっくり眠らせてあげたいです。

本人も言っていましたけれど、『誰かが実際の目で見て、誰かが伝えていかないと、本当の現実が知らせられない』。
それは私たちもそう思いまっていますので、妹ながら、ジャーナリスト魂にたけた、素晴らしい人間だったと思っています。

『よく頑張ったね。もうそんなに気を張らなくていいから、一緒に帰ろう』と言ってあげたいです”

author:清衛門, category:心のたより, 21:59
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女性国際ジャーナリスト 『山本美香』

山本美香さんが亡くなりました。
山本美香ジャーナリスト 

女性の国際ジャーナリストとして名前を知られている、山本美香さんの死亡が
昨日の報道で知らされました。

ご冥福を祈ります。

遅咲きのジャーナリストでした。

女性というハンディをはねのけるパワーがありました。

一人で撮影し、一人で編集し、一人でレポーターもこなしていました。

そして、女性でありながら、世界の紛争地区へ取材に駆け回っていました。

またひとり、勇気あるジャーナリストが戦場に消えていきました。

山本美香さんの掲載されているブログです。


http://c.filesend.to/plans/yuigon/body.php?od=20091013.html

彼女の想いの1ページが語られています。

志半ばで、とても残念だったでしょう。

ゆっくりとお休みください。

本当にお疲れさまでした。
author:清衛門, category:心のたより, 07:47
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十文字の絵
棟方志功胡須母寿花頌

胡須母寿花頌(こすもす かしょう)

当ビル1階の 『十文字』 を入ると、正面に1枚の絵があります。

ご存知の方も多いと思いますが、日本のゴッホと言われた
棟方志功画伯の作品です。

画題を 『胡須母寿花頌』 といいます。

棟方作品の中でも特徴的な作風で知られる、
円窓大首絵といわれるスタイルで描かれたものです。

もちろんコピーですよ。(色彩も本物とは少し違います)

「胡須母寿花頌」は、妻のチヤさんをモデルにしています。
この円窓大首絵の作品群は、チヤさんをモデルにしたものが
多いようです。
それだけ愛して、慕っていたのでしょう。

チヤさんが好きなコスモスをまわりに散りばめ、
そのコスモスの名に漢字の「母」「寿」をあてていますね。
彼女への感謝の表れでしょう。


棟方氏は、1970年に文化勲章を受賞しました。
その際、彼は 「半分はチヤのもの」 と言って妻への感謝を
言葉にしています。


チヤさんの支えなくして棟方志功は語れないとも言われています。
彼女の内助の功が、天才棟方を世に出したのかも知れません。

「私でなければこの人は支えられない」と思って結婚を決意した
というチヤさん。

不遇な時代も、世に認められてからも棟方を支え続けたのです。


彼は幼い頃に母を亡くしました。
女性像には母への思いと妻への感謝がこめられているのでしょう。


彼女の愛するコスモスの花をあしらい、とても柔らかな筆づかいで
彩色しています。

彼の特徴である、荒らしい野太い表現の板画とはまるで別世界です。

彼は女性に対して、「額(ひたい)にビャクゴウをつければ、どんな女性でも
立派な仏様になってしまう」 と言い続けていました。

この絵の妻の額にもビャクゴウを描いています。
まるで仏様のように慈しんでいるのが感じられます。


円窓大首絵チヤ

妻へ感謝!

『会席亭かくじゅう』と『大人の和食十文字』は女将(おかみ)で
支えられています。

1年間休まずに店で働いています。
チヤさんのように、ふくよかではありませんが、
おっとりして、優しく包むような女性です。

鮮魚店時代には、朝3時から夜遅くまで、店と家事と育児と
義母の介護を続けていました。

寝たきりの義母の介護は15年間も行っていました。

今でも、優しい表情といたわりの姿勢は変わることはありません。
ありがとう、妻へ感謝です。

author:清衛門, category:心のたより, 14:24
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いつの間にか秋の雲が
秋の雲に…
きょうは「せがけ法要」の日です。お客様も無事にお帰りになり、
昼間の賑わいがひと段落しました。

駐車場からふと見上げれば、いつの間にか秋の雲がただよっています。
八月も半ばを過ぎて、季節は確実に秋に向かっていますね。

今年はロンドンオリンピックでチームプレーの素晴らしさを、
あらためて感じることが出来ました。

なでしこ女子サッカー、女子バレー、フェンシング男子団体戦、卓球女子の団体戦、
体操男子、水泳リレー、陸上リレー、そしてアーチェリー女子など、感動のプレーが
印象に残りました。

女子柔道や女子レスリング、のメダルなど個人競技の選手たちも、それぞれが
「全員で勝ちとったメダル」という言葉を言っていました。

約500日前の日本は、東日本大震災で様々な苦難や悲しみに包まれていました。
その事から、私たちは「絆(きずな)」という大切な言葉を見つけたのです。

今回の日本チームに共通したものは、監督やコーチが選手の自主性にまかせたことです。

スポーツ競技にありがちな「根性!」とか「気合だ!」とか、いわゆる「スポコン」(スポーツ根性)
と呼ばれるスタイルから、大きく脱却した結果だと思われます。

店づくりにも大いに考えさせられるオリンピックでした。

秋近し、雲の鱗に秋刀魚の香り立つ。 
author:清衛門, category:心のたより, 16:37
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